2019.1.12 感想 (余談)

樋口楓1stLive「KANA-DERO」を観ました。

2019年1月12日、ニコニコ生放送にて。(1月21日まで、見られる限り繰り返し見るつもり)

 

ライブそのものについてというよりもぼく個人としての感想を。

 

 

 

【歌ってみた】クリスマスイブイブライブ!! - YouTube

昨年(2018年12月23日)、REALITYで歌とダンスの配信がありました。

 再生時間で48分30秒頃~「っていうか今年の目標は何だった?」というお題に対して「生きる」と答えています。

この時期にはもうライブのコンセプトも固まっていたでしょうから、この配信で語られている内容もライブに反映されていたのだろうと、ライブ後の時点から振り返ると改めて感じられます。

 ちなみに、生配信当時も見ていたはずなのですが、ライブ後にネットを巡回していた中で、他の方の記事(

音楽のチカラ、Vのチカラ [V音Advent Calendar 25日目]|clocknote.|note

)で「生きる」という文字を掲げた樋口楓さんのキャプチャー画像を見つけて、こんなのあったかなと思って改めて見返したのでした。

 

 

生まれ変わる放送 にじさんじすごろく大会の感想と質問返しとママになる - YouTube

開演直前の昼間14:00~、樋口楓さんの後輩にあたる雨森小夜さんの配信がありました。端的に「生前葬」を題材にしたものでした。昨年末に同じにじさんじSEEDs2期生出身の鳴門こがねさんが引退したことに触れて、もっといろいろお話しておけばよかったという後悔と、そうならないためにもコラボ等にも積極的に参加していきたいという決意が述べられていました。(21分20秒頃~)

 

 

 

不死身の体を手に入れて、

一生死なずに生きていく。

そんなSFを妄想してる

 (命に嫌われている。/カンザキイオリ)

バーチャルというのは不死の身体を得るなんていうSFではなくて、今、この時代を共に生きている存在なのです。

 

というようなことを書こうと思ったものの、つい先日、久遠千歳さんという不死身の人がにじさんじの後輩としてデビューしたばかりで、あまり話を単純化することもできないわけですが。

 

もちろん、バーチャルYouTuber とかVTuberとかバーチャルライバーとか名乗る人たちが全員同じ世界観であるわけではなくて、一人一人それぞれの世界の見方があるはずです。誕生と同時にデビューしてまだ1歳とか2歳とかの人もいれば、何百年、何千年、何億年と生きている人たちもいます。人間だけでなく電脳世界の住人だったりケモノだったりエルフだったり魔法少女だったり神様だったり悪魔だったり未来人だったり等々、いろんな種族がいます。

報道メディアで取り上げられる際には「なりたい自分になる」(

WEB特集 なりたい自分になる。VTuberが拓く! | NHKニュース

)みたいな取り上げられ方をすることもあるように見受けられますが、「なりたい自分」といってもあくまで肉体的な姿かたちがある程度は自由になる程度で、理想の肉体を獲得できたとしてもその姿かたちでどのように生きるのかはまた別の問題です。

先日のnews zero でも特集されていたそうで、番組自体は見ることができていないのですが、「姿かたちを自由に変えることができるからこそ中身が大事」というようなことを言われていたそうです。

キズナアイ、有働アナと“バーチャルYouTuber”の可能性を語る 「生きる選択肢を増やしてもらえたら」|Real Sound|リアルサウンド テック

はてなブックマーク - 串間あずき on Twitter: "キズナアイさんと対談した有働さん、「Vtuberは外見の可愛さが売りなのかと思っていたけど、誰でも可愛らしく作れてしまうのなら結局は中身を見られることになるんですね(要約)」とかメチャクチャ鋭いこと言っててやっぱこの人凄いわ敬服した"

姿かたちはアドバンテージにはならなくて、スタートラインでしかないのかもしれません。

 

 

以前「ハイヒール革命!」という映画を見ました。

ハイヒール革命! 感想 - 思い出の小箱の隅

映画「ハイヒール革命!」公式サイト

いわゆるMtF の人の話で、心と体とが一致していない状態の苦しさが描かれていた反面、体を一致させることだけにエネルギーを使い果たしてしまったのか、その先の目標を見失ってしまっていたような描かれ方をしていたのが印象的でした。

バーチャルの肉体にアクセスしやすくなるのは、そういうスタートラインに立つまでに必要なエネルギーが小さくて済むようになって、その先の生き方を見据えやすくなるということなのかもしれません。

 

 

バーチャルの存在も永遠ではない、という話にもどると、引退というのは必ずしも「死」を意味するわけではないし、動画や配信という形で会うことはできなくなってもどこか別の場所で元気にしているだろうとは信じていたいけれども、それとは別に、離別というものはやはり「死」に近いようにも思えるわけです。

小学校の同級生とは中学にあがると会わなくなったし、中学の同級生とは高校に入ってからは会わなくなったし。SNSのコミュニティーで毎日のようにチャットしていたメンバーともいつしか疎遠になってしまったし。

ここ数日に芸能関係の訃報が続いていますけれども、中には不謹慎ながらまだご存命だったのかなどと思ってしまうこともありました。

疎遠になったり、離別したり、忘却したり、というのは広い意味では「死」なのかなあと思います。

 

 

樋口楓🍁14日23:30YouTube on Twitter: "ありがとう!
#KANADERO… "

樋口楓さんからの直筆メッセージにも書かれているように、また月ノ美兎さんも含めて配信等でもたびたび話題に上がっているように、時の流れというのはゴウゴウと音を立てて流れていくわけで、いつか音楽が鳴り止んで会えなくなることがあるかもしれないけれども、だからこそ忘れたくないし、記憶だけでなく記録としても残しておきたいものです。

 

 

 

このダイアリー(ブログ)のタイトルである「思い出の小箱の隅」は、エヴァンゲリオン鋼鉄のガールフレンド2ndのエンディング曲だったと思いますが「無限抱擁」の歌詞

悲しみは途切れた未来ではなく

思い出の小箱のスミに忘れてゆかれること

 (無限抱擁)

から拝借しました。

たとえいつか未来が途切れたとしても、ここに書き記したことがどこかの誰かに届いて残ったらいいなあ、という祈りのような気持ちです。

 

 

この後(1月14日23:30~)振り返り配信があるらしいのでその前に投稿しておきます。