テヅカ・イズ・デッド 感想

伊藤剛テヅカ・イズ・デッド ひらかれたマンガ表現論へ」、星海社新書

個人的にこういった研究書は、学術的興味というよりも、マンガを読んだ感想を表記するための言葉を身につけたくて、読んでいる気持ちが強いです。

本書巻末の参考文献一覧を見ても、その膨大さに目眩がするくらいマンガ論の世界は広大で、それを網羅できるとはとても思えず、片手間でホイホイ参入できるような代物ではなさそうです。

以下は、本書を読みながら疑問をメモした走り書きや、読了後にもにょもにょ考えたりしたことを思いつくまま書き出したような雑感ですので、
至らない点はご容赦ください。



・「マンガ表現史の不在」を問題として提起されていますが、「マンガ表現史」というのが具体的にどういうものを期待されているのかわからなくて、もにょもにょ。

「表現史」という字面からは、誰々がこんな表現を発明して、それが誰々に模倣されて、波及していって、また別の表現が派生して、みたいなものを想像してしまいますが、
そういうものがこれ(2005年初出)まで書かれていなかったということなのかしら。

「表現」という言葉が意味するものをぼくが読み取れていないのかしら。



・「少年マンガ」「少女マンガ」といった分類の不全について
久保聡美さんの「陽炎ノスタルジア」、途中から新刊を見かけなくなってた気がしましたが、陳列される棚が移動してしまったからだったのかしら。
ガンガン周辺の話題が挙がるのは、直撃世代なだけに嬉しいものです。

・こういった評論をしようとする場合に、客観的なデータとしての売上部数みたいな数字が参照されますが、素人にはまずその数字の調べ方からわからなかったりします。
ついつい手軽にアクセスできる二次的三次的な引用データばかり目についてしまって、一次データがどこにあるのかわからなかったり。

・「少年マンガ」というくくりでも、自分のような1970年代末生まれでは、実体験としてはいわゆる「ジャンプ黄金期」以降でして、たとえば諸星大二郎先生がジャンプ作家だったと言われてもにわかには信じがたい気持ちがあったりします。
(えばぁの元ネタというところから入ったので、諸星大二郎先生はいわゆる「サブカル」の代表格みたいなイメージ。)

・後ろの方の記述では個人的な体験に基づく印象論はあまりよくなさそうな雰囲気ですが、先行文献を参照できるほど傾倒しているわけでもないので、私見に依らざるを得ないといいますか。

東浩紀動物化するポストモダン」について、マンガ表現における「モダン(近代)」の輪郭がよくわからないまま「ポストモダン」へ飛躍しているという指摘はすごく納得で、
そもそも「モダン」とか「ポストモダン」とかいう用語がよくわかっていなかったので、とても丁寧に噛み砕いてもらえてよかったです。

・『「テクスト」に対置する意味での「作品」ではなく……』とありますが、そもそも「テクスト」という単語がどういう意味合いで使われているのかわかっていなかったり。
説明するまでもない一般知識なのかしら。

・「キャラ」と「キャラクター」について
文学作品が主人公の名前で記憶されることは少ない、と言われると、いわゆるライトノベルがマンガ的だとかキャラクター小説だとか言われるのも腑に落ちる気がします。
探偵ものなんかもキャラクター要素が強そう。

矢沢あいNANA』について、「キャラが弱い」という話。
NANA』自体は未読ですが、たとえば竹宮ゆゆこさんの『ゴールデンタイム』にNANA先輩と呼ばれる人物が出てくる程度には、あるいは実写映画化された際の中島美嘉さんの姿を想起するくらいには、あのゴテゴテしたいかにもヴィジュアルロックっぽい造形は印象的で、作品内のエピソードに依らない、本書で述べられている「キャラ」の表れではないかと思うのですが、ぼくの理解は間違っているのかしら。
あの人(たぶんナナさん)が強すぎて、相対的に他の人物が弱く見えてしまうのかしら。

・「作者ーテクストーキャラ」とか書かれると、ますます「テクスト」の意味合いがうまく捉えられなくなってる気がします。



・以降、「キャラ」と「キャラクター」が異なる意味合いで使われることは理解したものの、どちらがどちらなのかの区別がつかなくて頭の中が整理できていません。