「人型の生き物が人語をしゃべって展開するお話で、「若くてかわいい女性」型キャラしか出てこない」お話

注記: ほとんど自分語りの気持ち悪い駄文です。ご笑覧いただけましたら幸いです。



〈人型の生き物が人語をしゃべって展開するお話で、「若くてかわいい女性」型キャラしか出てこない〉お話が好きな理由。

改めて説明しようと思うと、けっこう難しいです。

そもそも自分の趣味嗜好に対して「なぜそれが好きなのか」を考えること自体、なかなか機会を持ちません。

せっかくの機会なので、少し考えたことを書き出してみます。

端的には、
1. 女子の人かわいい、
2. 「かわいい」という感覚を公言しても許容してもらえそうな社会的雰囲気をなんとなく感じる、
3. 自分の「男性性」に対する嫌悪と、そこから波及しての男性性全般に対する嫌悪、
4. 3と矛盾しますが、「男性性」の自尊心みたいな自己満足を得られるような錯覚に浸ることができる、

の4点が大きいように自己分析します。
ちなみに、ぼく自身は、生物学的には男性です。



なお、おそらく専門の分野ではそれなりに研究や分析も積み重ねて来られていると思いますし、つい先だって、美術手帖誌2014年12月号の特集「ボーイズラブ」や、ユリイカ誌2014年12月号の特集「百合文化の現在」といった形で集積されてもいますので、興味をお持ちの向きには参考になるかもしれません。

(恥ずかしながら、ズボラなものでまだ読んでいなくて、部屋の片隅の山の中からどうにか発掘した次第。)

また、昨年は「美少女と美術史」と題した展覧会がいくつかの美術館で巡回開催されていたことも記憶に新しいです。

屏風絵や浮世絵といった絵画から明治大正を経てマンガ・アニメへ至る変遷のようなものも、ひとつの視点として見ることができる展覧会だったと思います。

(個人的には「美少女」という呼称自体には抵抗があって、わざわざ「美」と言わずとも「少女」だけでよいのではないかと思いますけれども)、
「女性」、あるいは「若い女性」という題材を扱うことは、必ずしも現代だけの特異な題材ではないだろう、ということと、
受け取る側の対象として男性を想定したものばかりではなく、むしろ「若い女性」を対象とした少女マンガと呼ばれる分野でこそ、女性キャラクターの描写は洗練されてきたようにも見える展示だった気がします。

「少女マンガ」的なものを男性一般がどのくらい受容していたのかは知る由もありませんけれども、
(1978年生まれの)個人的な体験としては、小中学校くらいまでは、男子は少年マンガ、女子は少女マンガと、はっきり区別されていたように思います。
(ここでは「少年」を男子のみを対象とする意味で使っています。他の言い換え単語を知らないもので。)

正直なところ、少女マンガを読むのは「恥ずかしい」気持ちがありましたし、とくに興味を引かれるような動機もなかった気がします。

しいていえば、当時、一方的にこちらが好意を寄せていた女子の人が「東京バビロン」を好きらしいと聞いて、CLAMP作品に触れたりはしましたけれども、その程度。

いや、今振り返ると、あそこで東京バビロンに出会ったのは、わりとその後の道を方向付けたのかもしれませんけれども。

ともかく、当時は、周囲の男子が少女マンガを読んでいたようにはぼくからは見えていませんでしたし、逆に、キャプテン翼聖闘士星矢を女子の人たちが読んでいるとは思いもよりませんでした。

少女マンガに対する「恥ずかしさ」は、なんとなくそういう雰囲気というか、ある種の同調圧力のようなものだったのではないかと、今は思います。

その後、どんどん内向的になり、高校では部活に入ることもなく直帰するようになると、当然のようにテレビっ子になっていきましたし、その中でも夕方のテレビ東京のアニメにのめり込むようになりました。

時系列を確認する気力はありませんけれども、
新世紀エヴァンゲリオン」はともかく、「機動戦艦ナデシコ」だったり、「少女革命ウテナ」だったり、「天空のエスカフローネ」だったり。

スレイヤーズ、天地無用、エルハザード、爆れつハンターセイバーマリオネット無責任艦長タイラーリューナイト銀河戦国群雄伝ライブルーシード、等々。

ロボットや宇宙といった、それまでは男性向けとされていたようなものと、恋愛要素のような、それまでは女性向けとされていたようなものとが、半ば悪魔合体的とすら表現したくなるような強引さで融合しているようにも見える作品もちらほら見受けられます。

もはや少年向け少女向けの垣根はあまり感じられなくなっていた気がします。

主人公が男性か女性かだとか、登場人物の男女比だとか、物語における恋愛要素の比重だとか、そういう分類をまたぎ越えたような、止揚みたいな。



少女マンガ分野で発達してきたと思われる目(瞳)が大きな女性キャラクターが、「美少女」として呼称されるようになったのも、この頃ではないかと思います。

「美少女」という呼称は、小耳にはさんだところでは、成年向け分野で年少の女子の人を題材にした「ロリータ」とか「ロリコン向け」の雑誌類あたりで普及していたのが氾濫したっぽいような噂を聞きます。
(このあたりは「エロマンガ・スタディーズ」が勉強になりましたが、まだ自分のものとして飲み込めるほど咀嚼はできていません。)


ちゃんとした資料にあたったわけではない個人的な印象ですが、「少年マンガ」「少女マンガ」「青年/成年マンガ」と別々に(時には相互に影響を及ぼしながらも)別個に発展してきた流れが、何かの弾みで渾然一体となったのではないかとすら思います。



ウエディングピーチりりかSOS赤ずきんチャチャこどものおもちゃふしぎ遊戯水色時代、あたりは、なんだか少し毛色が違う感じを受けつつぼんやり眺めていた気がします。



マンガの話とアニメの話がごちゃまぜになっていて、我ながら混乱しているとは思いますけれども、ぼくの中では連続的な地続きの存在に思えるので、ご寛恕ください。

そういえば、この頃、並行して、コミックガンマやガンガンファンタジーといった、男女の境界とは別次元のマンガ雑誌に傾倒していましたので、アニメ作品に限ったことではないのかもしれません。



自分で何を書こうとしていたのかわからなくなってきたので少し整理すると、
(客観的な分析ではなくて、個人的主観的な印象にすぎませんけれども)

・「少年向け」と「少女向け」とが明確に区別されていた時期(青年向け/成年向けもまた別に)

・次第に、「少年向け」と「少女向け」の中間のような存在が台頭、
・「少年向け」作品に、「少女向け」のような瞳の大きい女性キャラクターが流入

・男性の主人公1人に対して複数の女性登場人物が配置される物語構造/人物配置の普及、
(成年男性向けのような夢想から、たとえば「ああ女神さま」みたいな作品だったり、対女性攻略ゲーム(ときメモTo Heart 等)からの伝播ではないかと推測しますが、時系列的な前後関係は間違っているかもしれません。)

・男性主人公に対する反感、嫌悪から、次第に男性主人公の存在の希薄化を経て、不在に。
(おそらく、ゲーム「Air」が象徴的。)

といった作品群に触れながら育ってきたので、作り手側の意識の変化はわからないですが、受け手側としては、順を追って次第に順応してきたので、「女性キャラクターしか登場しない」作品が出てくるのは、突然変異的に出現したわけではなくて、わりと自然な流れだったように思います。

けれども、こういった経緯を知らない方々から見ると、奇異に映るということも生じ得るのかもしれません。


    • -

ええと、上記の書き方だと、「女性キャラクターしか登場しない作品」が出現した経緯の説明でしかなくて、どうしてそれを見るのかという問いには答えていないかもしれません。

個人的には、冒頭に挙げた4点だと、今のところ思っています。
(自覚していない別の理由もあるかもしれませんけれども。)

1. 女子の人かわいい、
苺ましまろ」というマンガ作品では、『かわいいは正義』というキャッチコピーが使われています。
(「苺ましまろ」には男性キャラクターも登場します。)
いつ頃からかは知りませんが、「かわいい」を自覚的に強調する作品が出てきているように見受けられます。



2. 「かわいい」という感覚を公言しても許容してもらえそうな社会的雰囲気をなんとなく感じる、

1 だけだと個人的に見たり読んだりして消費するだけだったかもしれませんけれども、インターネット環境の普及もあってか、同好の人たちが、その感動を共有でき得る可能性が高まっているように思います。
必ずしも誰かしらの賛同を得られるとは限りませんけれども、自分以外にも同じものを好きな人がいるかもしれないという希望は、ありがたいものです。



3. 自分の「男性性」に対する嫌悪と、そこから波及しての男性性全般に対する嫌悪、

自分の男性性の持つ、衝動的な暴力性や支配欲みたいなものを自覚してしまうと、自分自身に嫌気がさしてしまいます。
一方、自分が一方的に好意を寄せている相手が別の男性と一緒にいたりすれば嫉妬もしますし、(この場合の「嫉妬」は、女性に対しては自分の方を向いてくれないことに対する苛立ち、男性に対しては自分が居るべき場所を奪われたことに対するムカつき)、その自分の独占欲や無力さに失望します。
物語作品でも、女性キャラクターが、自分自身を仮託できる対象(たとえば男性主人公)に好意を向けてくれれば嬉しいし、逆に、自分自身を仮託しにくい男性キャラクターに好意を向けられてしまうと、その男性キャラクターに対する嫌悪感が生じます。
であるなら、はじめから男性キャラクターが存在しなければよい。
独裁的かもしれませんけれども、嗜好対象なのですから、わがまま身勝手でもいいでしょう。



4. 3と矛盾しますが、「男性性」の自尊心みたいな自己満足を得られるような錯覚に浸ることができる、

主人公として固有の男性キャラクターが存在してしまうと、視点がそのキャラクターに固定されてしまいがちですが、
そもそも男性キャラクターが存在しなければ、神の視点である読者/視聴者自身は、どこにでも存在できるし、何だってできる、万能感を堪能できる、ような気分に酔うことができます。


    • -

また、大前提としては、1人の人がある趣味嗜好1つだけに専念することはおそらく稀で、大抵は、Aも好きだしBも好きだというように複数の趣味嗜好を持ち得るし、AとBとが矛盾することもあり得るだろうと思います。

「女性キャラクターだけが登場する作品」を好む人が同時に「老若男女が混在する作品」も好むこともあり得るし、「年少男性キャラクターだけの作品」も、あるいはそれこそ「人型ではないキャラクターだけの作品」も、好むことだってできます。

「女性キャラクターだけの作品」だけしか好まないという方ももちろんいらっしゃるでしょうけれども、同じくらいには、「その他の雑多な作品群の中の1ジャンルにすぎない」という見方もできるでしょう。

多種多様な属性のキャラクターが登場するのが多様性であるならば、限定された属性だけしか登場しない作品もまた多様性の一部に含まれていいのではないかと思います。