劇場版 明治東亰恋伽 〜弦月の小夜曲〜 感想

映画「劇場版 明治東亰恋伽 〜弦月の小夜曲〜」を観ました。(7月18日観賞分)

原作はよく知りません。

明治文化人これくしょん、みたいな感じなのでしょうか。
泉鏡花さん、森鴎外さん、菱田春草さん、川上音二郎さん、藤田五郎さん、小泉八雲さん、チャーリーさん(?)、岩崎桃介さん、といった著名な方々が、(泉鏡花さん森鴎外さん小泉八雲さんあたりしか元ネタの人を知りませんけど)、
チャラチャラした若いお兄さんに姿を変えて、女性主人公さんをチヤホヤするお話、だと思います。

いわゆる「乙女」ものなのでしょう。
女性主人公1人に対して、一癖も二癖もあるような男性陣がわらわらと群がってくる感じで、男女が反転しても世界は大して変わらないのかもしれません。

こういう系統の作品においては、男性陣のキャラクターがわりとデフォルメされているというか、わかりやすい感じに類型化されている傾向があるように思います。

泉鏡花さんは世話焼きながらも素直じゃないやんちゃそうな感じ、
小泉八雲さんはうさんくさい舶来の言葉を混ぜたカタコト喋りに、メガネ、ヘンタイ、みたいな。
(余談ですが、壁から首だけを出して上下に動いて「ろくろ首」の動きはなんか滑らかに感じました)

女性キャラクターであれば「萌え化」とでも呼べそうな明快な性格付けが、いわゆる「乙女」もの分野における男性キャラクターについても同じようなことが生じているのではないかしら。

動物化するポストモダン』あたりで提唱されていたデータベース型のキャラクター消費の実例なのでしょう。

「そんな男が実在するわけねー」みたいなツッコミはもはや意味がありません。

架空の存在として、データベース化された属性の中から適当に組み合わされたような、一種の理想化されたキャラクターなのでしょう。

あるいは、ホスト屋さんなんかならば、こういう人が実在したりするのでしょうかしら。知りませんけど。

理想は理想、架空は架空、で済んでいれば、みんなが幸せでいられるでしょう。

けど、これを現実へ水平展開しようとすると、サークルクラッシャーの姫、みたいな泥沼に沈んでいくことになりやしないか、心配になってしまいます。

男性陣はまあ観賞して楽しむ対象として見る分には、何このかわいい生物、みたいに微笑ましく眺めていられます。

一方、主役であるはずの女性主人公さんの存在感の希薄さは、なんなん、ですかしら。

『薄桜鬼』でも似たようなことを感じたのですが、女性主人公さんは特には必要ないんじゃないのかな、と思ってしまったりします。

どちらかというと、観客/視聴者の視点を仮託するための役割なのかなあ、みたいな。

役に立たないどころか足を引っ張ってる気もしますけど、それが周囲の男性陣を惹きつけて物語を駆動する原動力になっているのかしら、みたいな。

そんなこんなで、本作の事件は有耶無耶のうちに解決したっぽい雰囲気でしたけど、怪異に関しては大本の部分がほとんど不明瞭なままみたいだし、女性主人公さんが元の世界へ戻るのだか戻らないのだか決断を迫られているのに放り投げっぱなしだし、続編を作りたい感じなのかしら。

そういえば女性主人公さんは平成の世界からタイムスリップして明治の世界へやってきたらしいのですが、そのあたりの戸惑いが描かれずに、既にその世界に馴染んだところから、ちょこちょこ回想する程度なのは、少し残念でした。

個人的には、異世界へ飛ばされた時の反応を見たいのですが。

『神々の悪戯』みたいなのとか、『桜蘭高校ホスト部』なんかは、異世界との初接触部分はけっこうしっかりと描かれていた気がします。

ああいうのと比べて、本作の女性主人公さんの平成要素って金銭感覚くらいでしたよね。
あと肉鍋?

制服でうろうろして、何あの服〜プークスクス〜、みたいなのがあってもよかったんじゃないかなあ、と思いました。

というか女性主人公さんがどういう人物なのか、平成の世界でどんな生活をしていたのか、ほとんど触れられてなかったような気がします。

学生服を着ている年代のくせにタクシー料金の目安がわかる程度にはタクシーを使い慣れているブルジョワジーっぽさは感じますけれども。

缶バッヂは春草さんでした。

ところで、缶バッヂ交換の交渉を積極的にしている方々がいらっしゃって、なんだか新鮮でした。
ぼくからは見えていませんでしたけどラブライブでもやってる人はいたのかしら。

ともあれ、声をかけてもらえなくて残念でした。