バースデー・ワンダーランド 感想

映画「バースデー・ワンダーランド」を観ました。
2019年5月1日、川崎チネチッタにて。
原作未読。

錬金術師の弟子が赤髪のチビスケでアンジュ・カトリーナさんみたい
・声はだいぶ違うけど

・基本的に不安とか恐怖とかに由来する出来事ばかりで、憎悪に近い感情はあれども、純然たる悪意みたいなものは存在しないので安心して見ることができました。
・いや、不安に駆られての行動だったとしてもやりすぎだったとは思いますが
・殺意とか刃傷沙汰みたくならなくて
・(これは直前に見た「多十郎殉愛記」と対比して見てしまったのも大きいかしら)

・不安とか臆病さといった弱い(とされる)気持ちに焦点が当たっているのは、冒頭で描かれた主人公さんの学校での出来事と重なり合うようになっていて、そういう規模感のお話だったのだろうなあみたいな

・「悪を武力で懲らしめること」ではなくて、「不安とか臆病な心と向き合うこと」が必要だったのでしょうし

 

・欲を言えば、冒頭らへんの、自転車で河川敷を移動していくあたりの描写が、観客の目からは十分に色彩鮮やかに見えていたので、終盤で主人公さんが世界って綺麗みたいなことを言い出したあたりにあまり説得力を感じられなかったというか
・素人考えだと、序盤の風景描写は色彩を暗めにしておくみたいな選択肢もあったのではないかというか、
・当然、素人が考えるようなことは想定された上でああいう表現なのでしょうけれども

・実写映画だと「アーティスト」やら「ピンクとグレー」やら「銃」やらで見かけて、こういう表現いいなーとか思ってしまっていたのもあるかも

・主人公さんが様々な体験を前のめりになりながら過ごしてきたのはわかるのですけど、それらの体験から得られたものと、終盤の説得の場面での発言って釣り合っていたのかしら、みたいな

・「色彩が無くなっていく」という設定のわりに、砂漠なんかでも赤い縞々のグラデーションになっていて、ぼくの目には、あれは十分に色彩豊かな世界であって「色彩が無くなっていく」世界であるようには見えなかったもので

・(そういえば「カラフル」未見なのですがタイトル的にそのあたりの問題意識は既に通過済みなのだとしたら釈迦に説法どころか釈迦に難癖でしかなかったかも)

・けど、劇中の工業の街みたいなところはずいぶんとずいぶんな描写だったので、描こうと思えば描けるのでしょうし、やっぱり意識的にああいう表現をしたものとして受け取るべきか
・主人公さんがあの街を見てたらまた結論は違うものになってたのかしら

 

・たぶん典型的な「行きて帰りし物語」の類型なのでしょうけれども、主人公が1人ではなくて年長者が同行するのって珍しいのではないかしらどうかしら
・ああいう積極的で行動的な年長者が一緒だと主人公は何もしてなくても事態が転がっていったり問題が解決してしまったりで主人公さん本人の冒険譚としてはやや弱くなってしまいそうというか、終盤に至るまでに主人公さんは何をしてきたんだったかあまり思い出せないというか(大半はお姉さんが解決してくれてた気がしてしまって)

・もう少し尺があったら、お姉さんは何でもできるのに自分には何もできない、みたいに他人と見比べて自分を卑下してしまうエピソードなんかもできそうな人物配置というか
・ちょうど、錬金術師の弟子と魔法使いの弟子との関係と対置できそうなような

 

・予告編でクライマックスの部分を見せてしまってたのは、どうなのかしら
・実際にあの場面が感情的にも最高潮だったわけですが
・あの場所へたどり着いた時点で、予告編で見たあれがいつ来るのか、みたいな身構え方をしてしまっていたもので
・難しい問題じゃよね