イレブン・ミニッツ 感想

映画「イレブン・ミニッツ」感想
9月10日、109シネマズ川崎にて。
字幕版。

舞台はポーランドなのでしょうか。
夕方5時から11分間のお話。



11分間とはいっても、時間がそのまま順当に流れているわけではなくて、同じ時間を往きつ戻りつしながら、複数の人物の行動を視点を変えて追っていく形式です。

その複数の人物は、お互いに面識があるわけでもなく、そのへんでちょっとすれ違った程度の、袖がすり合った程度の縁しかなかったように見えます。

たとえば、屋台でホットドッグを売っている男性と、その客である修道士の人たちだったり、あるいは、そのホットドッグ売り場の横を通り過ぎただけの人だったり。

あるいは、横断歩道で信号が変わるのを待つ女性と、そこをバイクで走り抜ける男性だったり、同じ通りを救急車で通るレスキュー隊員だったり。

そういった、まったく別々の生活をしていながら、たまたまその時その場所に偶然居合わせたというだけの、縁とも言えなさそうなわずかな縁しかない人たちの姿を描いています。


たとえば、登山をしていて休火山の噴火に巻き込まれた人たち。
たとえば、スキーのバスツアーに行く途中でバスが転落事故を起こして巻き込まれた人たち。
そういう、災害や事故で犠牲になった人たちについて、その生前の人となりをマスメディアが報道しているのを見かけることがあります。
場合によってはSNS の履歴や卒業文集なんかを掘り起こして公表する場合もあるようです。

犠牲者の生前の姿を明らかにすることで、何気ない日常が突然奪われてしまった悲劇がよりいっそう際立つのかもしれません。



本作は、ある意味では、そういう犠牲者の日常を掘り起こす作業を、より徹底して描き出そうとした作品なのかもしれません。

「5時11分」に発生した出来事がどういうものだったのかはともかく、そこに至る過程で、その出来事に関わった人たちがどのような時間を過ごしていたのか。
彼らがどういう人物で、何を見て、何を感じていたのか。

「5時11分」までの11分間、彼らは確かにそこで生きていました。

少しばかりエキセントリックで常軌を逸した人物もいましたが、大半は、どうということもなく犬と散歩していたり、ホットドッグを買い食いしていたり、川辺で絵を描いていたり、というごく普通の人たちです。

あるいは、翌日に結婚を控えた息子とその父親だったり、映画監督とその作品のオーディションを受ける女優だったり。

あるいは、ホテルの外壁を修理するためにゴンドラでぶら下がる作業員だったり、その作業員の休憩時間に合わせて部屋に忍び込む交際相手だったり、場末の質屋に強盗に入ったら首吊りしている店主を発見してしまったり、自宅で産気づいた女性のレスキューに行ったら通路が塞がれていたり錯乱して暴れている男性がいてレスキューに手こずったり。

ありふれた日常というには少しばかり特殊な事例もありそうですが、かといって、現実的には皆無なわけではなく、街のどこかしらでもしかしたら起こっているかもしれないような、日常を逸脱しない程度の非日常。

特別なことなどありません。



推理もので殺人事件が起こったときに、たまたまその場に居ただけで無関係な人たちのプライベートがとばっちりで明るみになるようなものです。

特別なことなど何もない、ごくごく普通の人たちが、たまたまとある出来事に巻き込まれてしまっただけでしかありません。

しかし、そのごく普通の人たちのごく普通の日常が、唐突に終焉を迎えてしまう、奪い取られてしまう。
その落差、高低差こそが悲劇なのかもしれません。

悲しみは途切れた未来ではなく、なんて歌詞もありますが、やはり未来が途切れたこと自体もまた悲しみではあるのです。


意味ありげに挿入されていた「空に浮かぶ黒い点」についてはよくわかりませんでした。

轟音を立てて空に浮かぶアレがミスリードだったのも驚いたというか拍子抜けというか。