ザ・サークル 感想

映画「ザ・サークル」を観ました。
11月25日、シネシティザートにて。
字幕版。

世界的なIT企業(という表現でいいのでしょうか、要はGoogle社みたいな会社)のお話。

インターネットを介した様々なサービスで急成長してきた〈サークル社〉が新商品として開発した小型のwebカメラをそこら中にばらまいて、その映像を誰もがいつでも共有できるサービスを開始。
そのプロモーションの一環として、コールセンターに新規採用されたばかりの主人公メイさんが抜擢されて、メイさんは日常生活のほぼすべての時間を常にカメラを介して世界中に配信しながら暮らすことになっていきます。
例外として睡眠中とトイレ(3分間だけ)はカメラをOFFにできるものの、それ以外はずっと誰かに見られているご様子。
そういえばお風呂とかシャワーのあたりは説明なかったかも。

サークル社ではこれを「透明化」と称して、隠し事の無い正しい世界を目指そうとしています。
(言葉として「正しい世界」だったかはあまり自信がなく別の言葉だったかもしれません。)

四六時中を衆人環視の中で生活するなんてぼくには耐えられそうもありませんし、実際に劇中でもメイさんの家族や友人たちといった身近な人々との関係にも亀裂が入っていきます。

正直にいえば、ぼくはいずれこういうオープン指向のシステムは無理があるから止めましょうと撤回する展開になるものと予想していました。
そんなぼくの浅薄な考えなどものともせずに、劇中の人物たちは、犠牲を払いながらもオープン化の方向へと邁進し続けていきます。

驚きました。衝撃でした。

ぼくや、劇中のメイさんの親族・友人たちのように、オープン化に抵抗感を抱くような人間は既に旧いしがらみに縛られてしまっているのかもしれません。
こういう旧い人類はさほど遠くないうちに淘汰されて、新しい、オープン化に抵抗のない人々が世界を支配し、変えていくのでしょう。
隠し事は嘘を吐くことであり、嘘は罪だという信念の元に。

藤子・F・不二雄先生の短編に「T・M(タイムマシン)は絶対に」という作品があります。
詳細は伏せますが、将来タイムマシンが技術的には可能になったとしても、人類に隠し事がある限りはタイムマシンの実用化など不可能だ、という作品です。

しかし、「ザ・サークル」の描く世界ではいずれ人類から隠し事がなくなりますから、タイムマシンの実用化における障害もなくなるわけです。
あのような世界が実現してこそ初めて、タイムマシンの実用化もまた現実的になるのです。


というようなことをつらつらと考えながらも文章にできずにいたら、現実はまだまだそんな水準ではないようです。
昨日(11月26日)の夜、大河ドラマ直虎の後に放送していた番組で、いわゆるIoT機器のセキュリティー問題が特集されていました。
ネットワークに接続されているカメラの盗聴盗視問題から、セキュリティーの弱い機器を介在した大量データ送信攻撃といったものまで。
メーカー側がどれだけ便利な製品を提供しようとしていたとしても、リスクは常に隣り合わせでもあるようです。

あるいは、サークル社の理想とする総オープン社会が実現すれば、それは同時に総監視社会でもあるわけで、何らかの不正を行おうとしても、未然に、あるいは即座に、発覚して防ぐことができるようになるかもしれません
まさしく、SFで描かれるディストピア社会の姿です。

そのような理想のディストピア社会が完全な形で機能するようになるまでには、どれだけの犠牲を踏み倒していかなければならないのでしょう。
少なくともぼく自身にはそのディストピア社会を実際に目にすることはできないでしょうけれども、喜んでいいのか悲しむべきなのか、わかりません。