涼宮ハルヒの消失

涼宮ハルヒの消失」を観ました

ちなみに、原作は憂鬱だけ既読、TVアニメ版は2期の新作部分(笹の葉ラプソディエンドレスエイト)あたりをちらほら観た程度、
あとは、派生作品の「涼宮ハルヒちゃんの憂鬱」は、コミック・アニメとも、ちょろっと観たくらい、という、
ものすごく中途半端な知識しかありませんでした。

が、案外しっかりと楽しむことができたのではないかと思います。



たまごまごごはん」さんのサイトの、最近のエントリで、らぶこめものを観る際の視点に関する指摘がおもしろくて、
おおまかに、
?箱庭を眺めるように自分を第三者の位置に置く
?自分をその作品の一部にする
という二通りあるのではないか、というものです。

客観的に登場人物たちのキャッキャウフフを眺めて楽しむか、
自分を登場人物に同調させて、擬似体験を楽しむか。

涼宮ハルヒの憂鬱」シリーズでは、非日常的といっても過言ではないくらい個性豊かな登場人物ばかりであるにもかかわらず、
主人公のキョンくんのツッコミ的なモノローグが多いことで、読者/視聴者が同調しやすく作られてきたように思っていました。

ある意味、ギャルゲ方面やいわゆるハーレムものの主人公に多いタイプでもあるかと思いますが、
それによって、あたかも、読者/視聴者が作品中に溶け込んで、物語を擬似的に体験できたような気分になることが期待できます。

が、今回の映画では、キョンくんは視聴者の代理人ではなく、確固とした個人として、能動的に行動することになります。

正直、ぼくの持っていたキョンくんのイメージとずいぶん違うような気がしてしまって、戸惑いました。



一方、この映画では、長門さんが、ごく普通の少女のような振る舞いで登場します。

距離をとり、目を逸らし、頬を染め、震えながら入部届けを渡して勧誘する。
俯きながらも、袖をつかんで引き止める。

客観的に見てかわいらしいと感じると同時に、視聴者が感情移入しやすい対象としても機能していたのではないかと思うのです。

自分が想いを寄せる対象には、ほとんど相思相愛の相手がいて、自分の入り込む余地はなく、ムリに入り込んで関係が拗れてしまうのも本意ではない。

いっそのこと、世界を改変して、現在の構築されてしまった人間関係をリセットすることはできないか。

ある種の歴史改変ものではありますが、
ちゃんと元に戻る選択肢を残しておくのが、長門さんの誠実なところなのかもしれません。



というわけで、ぼくは、世界の改変を試みて砕け散ったお話、として受け取りました。



それにしても、ハルヒさんは、外から見ている分にはものすごく魅力的ですね〜。

あと、「ハルヒちゃん」での朝倉さんは「消失」を意識しているって、こういうことだったんですね〜。