思い出のマーニー 感想

映画「思い出のマーニー」を観ました。

原作未読。

あんなさんとマーニーさんのお話。

「あなたのことがだいすき!」、の唐突さに女子の人の感情の飛躍を感じると同時に、自分にはゆりゆりを楽しむ能力が失われてしまったのではないかと悲しくなった次第。

ぶっちゃけ、めんどくさっ、みたいな。

自分を悲劇のヒロインだと思いこみがちな年頃の共依存と解放と救済のお話、ということなのかもしれませんが、
自分には女子の人だった経験がないせいか、いまひとつ響くところがないというか、ぴんとこなかった気がします。

あるいは、家庭的に恵まれているというのも一因かもしれません。

家族に何らかのの不満や不安や失望やなんやらかんやら、ネガティブな感情を持っていると、それなりに感じるところがあるのでしょうけれども、
そういった時期を過ぎ去ってそれなりに良好な関係に至った今となっては、そんなにネガティブな部分ばかり強調されても困ってしまったり。

外側から眺めるだけの立場としてはとても美しく完結した世界なのですが、
そこに入り込もうとするには一定以上の努力が必要みたいです。



ジブリブランドを語る際に、「母性」について言及されることがしばしばあるように思います。

とくに宮崎駿監督の場合は顕著で、ご母堂様の事情もあっていろいろな推測が為されますが、
概ね、すべてを許容するおおらかな包容力と、運命に立ち向かう決然とした凛々しさとを兼ね備えているように思います。

それはヒロインさん自身の場合もあれば、主人公の母親であったり、対立する存在だったりするかもしれませんが、
何らかの形で完全無欠の絶対的な「母性」の象徴として描かれてきたような気がします。

米林監督作品でも、アリエッティさんにはまだその名残が見られましょう。

しかし、本作のあんなさんとマーニーさんにおいては、



……、とここまで書いておいて、そういえば、あんなさんの居候先の奥さんがまさに「母性」そのものだと思い至り、ここまでの愚考がご破算になりました。

でもせっかく書いたので残しておきます。



ともあれ、その奥さんを除けば、様々な形での、不完全な悩める母親像、女性像ばかりに見えました。

根本的な部分にいわゆるマザコン性を植えつけられて育った身には、やはりどこか満たされない感じというか、受容されていない感じがしてしまい、もやもやが残りました。

そういう意味では、宮崎駿作品のように主人公に没入するのではなくて、高畑勲作品のようにどこか俯瞰するような視点で観たほうがいいのかもしれません。



うーん、「だいすき!」という言葉がどこか表面的で、ネットで見かける「ずっとも」くらいの感覚に見えてしまったのも、もやもやの因子かもしれません。

積み重ねみたいなものもあまりなく、会ってすぐに「だいすき!」だったような印象です。

永久に秘密、とか。

ここぞという時に一言ずどん、というわけでなくて、わりといろんな場面で「だいすき!」「だいすき!」って頻発して言っていたような印象ばかり残っていて、なんだか軽く感じました。

これは予告編を観すぎたことによる弊害かもしれませんけれども。

あの「だいすき!」のニュアンスをつかめるかどうかが、この作品を楽しめるかどうかの肝ではないかしら。



あんなさんとマーニーさん以外では、
七夕に一緒に行ったノブコさんのお友だちの人がけっこう美人さんだったような気がしたり、
後ろのほうで浴衣姿でどんちきどんちき踊っていた2人が気にかかっていたり、
双子らしいメイド姿のねぇやさんたちにほとんど出番が無かったり、
マーニーさんのお母様が美人さんだったり、
といったあたりが印象的でしょうか。



北海道が舞台ということで、「ジョバンニの島」を観ていたらまた感想が違ったかもしれませんけれども、後の祭りでした。

新訳 思い出のマーニー (角川つばさ文庫)

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