三度目の殺人 感想

映画「三度目の殺人」を観ました。
9月9日、川崎チネチッタにて。

・前回二人だったから今回で三人目という意味で三度目という数え方でいいのかしら。

役所広司さんと福山雅治さんがちゅーでもしそうな勢いで顔を近づけててドキドキしました。
・(そういう場面ではない)
・ドキドキしたのは別の理由。ものすごい迫力というか、緊迫感。
・攻めと受けが逆転したみたいな
誘い受けの側が一転して攻めに出るとめちゃめちゃ怖い

・ガラス越しに手のひらを重ねるのもなんかやらしい

・二人を遮るガラスが、時には鏡のようにお互いを向かい合わせるようにしていたり、ときには反射と透過の象を重ねて二人が同調して一体化していくかのように見せたり、映像表現としての見せ方がすごかったように思います

福山雅治さんは序盤では冷徹な弁護士として描かれていて、満島弟くんに対して、真実がどうかなんてどうでもよくて、裁判で依頼人を有利にするにはどうするかが大事だみたいな態度でしたけど、次第に役所広司さんに感化されていってしまうようで
・深淵がどうのこうのというのは今や陳腐な言葉であるかのように扱われがちですけれども、やはり犯罪者の心を覗き込もうとすると、その心の闇に飲み込まれざるを得ないのか
・あるいは、そういう危険性を知っているからこそ、自分の身を守るためにはあまり深入りせずに表面的に割り切ったお仕事をするべきなのか

・真実なんてわかりっこないのだから裁判としてどう立ち回るかという戦術的な側面や経済的な側面と、当事者の「信じるかどうかを聞いているんだ」という何を信じるかという問題に加えて、被告人だけでなく、その周囲の関係者の利害得失だったり、名誉だったり、プライバシーというのか、部外者からの好奇の目から心身を守ることだったり
・全部を守ることはできなくて、何かを選べば別の何かを捨てざるをえないというトレードオフな関係の中で、何を守るのかという取捨選択を迫られて



・陰影の表現も
広瀬すずさんがキッチンで母親と向き合うときの真正面から顔をとらえて半分が影になってる画面とか
・結審後の役所広司さんの後光が射したような画面とか



斉藤由貴さんと広瀬すずさんの母娘百合
・なんて生易しいものではなかった
斉藤由貴さんの、凡庸そうでありながらどこかぶっ壊れてるような凄み

広瀬すずさんと、福山雅治さんの娘役の人の区別がつかなくてなんか混乱しました



・空っぽの器とか、フルフロンタルさんみたいな単語が出てきた
・人の願いを叶える願望器



・罪の重さの決め方、難しい
・強盗殺人罪と、殺人してから窃盗したのとでは量刑が違うのだとか
・動機が金品目的か怨恨かでも裁判官の心証が違うとか
・事件の真相、事実を明らかにすることと、裁判のための戦略との齟齬
・事実を通して罪が重くなるか、事実をねじ曲げてでも罪を軽くしてもらうか

市川実日子さんの検事さん姿すてき
・わりとマジメで潔癖そうで理想を高く持ってそうで
・けど、もう一人の同僚なのか上司なのかわかりませんけど、ごにょごにょと口入れされるとしぶしぶそれに従ったり、証人喚問での証人の発言にちょっと戸惑ったり
・かわいい

・罪と向き合うとはどういうことか
・犯罪者の更正を信じることができるのか

福山雅治さんと橋爪功さんとの父子の距離感が、なんかいい感じ
・人は他人を理解することなどできない、家族ですら理解できないのに
・みたいな話をしながら、茹でてる麺をつまんで口に入れる父親を見てドン引きする息子

・預金通帳の入出履歴を確認したとして、その用途だったり趣旨だったりという部分は当事者の証言によるらしく
・証言者が信用できるのか

・推理ものでも、見つけることができた証拠から推理を構築するので、その証拠品が正しく事件の証拠であるのかとか、現場に残された痕跡のうちのどれを証拠として採用するかの選別だとか、関係者が部分的に証拠を隠していたりして真実に辿り着くためのピースが足りなかったりだとか、この映画の中でも語られる群盲象を評すの逸話のように、全体像のうちの一部分しか触れることができない場合にどこに触れて何を信じるかという選別が生じてしまって

・同じくこの映画の別の場面で語られる命の選別の問題にも絡んで
・当人の関与できない外的な要因によって人の生死は左右されてしまうという理不尽さに結びついていくのかも

・誰も本当のことを言わない法廷という場は、はたして誰が何を裁いているのか。という素朴な問い掛け






・まったくの余談ですが、別の場所で少し盛り上がっている話題があって、そこについうっかりこの映画のタイトルを書きたくなってしまうのですが、そんなことしたら性質の悪いネタバレになってしまうでしょうし、なんならこのタイトルとその話題を結びつけること自体が即座にネタバレに直結してしまう上に、そのことを世間に広めることはおそらく登場人物の誰も望まないでしょうから秘するべきと思いつつ、未練がましくこんなところに意味不明な記録を書き残そうとしてしまうあたり、やはりぼく自身のいびつな顕示欲を抑えきれずにいます

・そういえば鍋がボロボロというのも、状況が悪くなっているにもかかわらず見て見ないふりをして何か改善するべく行動しようとしていなかったということなのかしら

福山雅治さん父娘のニモ(おそらく熱帯魚)の話とカナリアの話が符合したりするのも何か狙いがあったのかしら
福山雅治さんと役所広司さんとの立場的な重なりの表現かしら