ファインディング・ドリー 感想

映画「ファインディング・ドリー」を観ました。
7月18日、横浜ブルク13にて。
2D吹替版。

ファインディング・ニモの続編みたいですが、ニモはたぶん見てなかったような気がします。

短編「ひな鳥の冒険」

併映の短編「ひな鳥の冒険」は、はじめ実写かと思いました。(ディズニーやピクサーの作品では毎度の感想ではありますが)
個人的には本編よりも好きかも。

ただ、ヤドカリとは意思疎通しておきながらアサリ(?)は食べちゃうあたり、動物ものの線引きは難しそうだなあとか思ったり。
利害関係が衝突しない範囲であれば協調できても、捕食者と被食者のような対立関係にある相手との協調は難しいものなのかもしれません。


本編「ファインディング・ドリー

率直に言えば、予告編から想像できる範疇にだいたいおさまっている印象です。
タコさんがあそこまで重要な地位を占めるとは思いませんでしたけれども。

ドリーさんが、幼い頃にはぐれてしまった両親を探すお話。
それ以上でもそれ以下でもありません。

「ニモ」を見ていないのでドリーさんに対する思い入れがまったく無いこともありますが、ドリーさんの「忘れてしまう」という設定がなんとも不安定に思えました。

「忘れてしまう」という性質のために悩み込んでしまう面と、それによって周囲を心配させまいと明るく振る舞おうとする面と、多面的な側面があるのだろうと思いますが、それがシナリオ運びを阻害しているというか。

大事な話をしていて、その話をちゃんと聞いてさえいれば、と思うような場面で腰を折って脱線してしまうことが多くて、物語に没入するよりも、なんで話を聞かないのよ、ちゃんと話を聞きなさいよ、とイライラばかり募ってしまいました。

ドリーさんは「忘れてしまう」反面、発想の柔軟さや瞬発力がある、みたいな話も終盤になっていきなり出てきたので、(もしかしたら「ニモ」で描かれてはいたのかもしれませんけれども)、唐突に思えてしまった気がします。

本作はドリーさんの視点から描かれているわけですが、ドリーさんのご両親の視点から見ると、より一層つらさが増してしまいます。
ある日突然いなくなってしまった子どもを、ただひたすら信じて待ち続ける。

時おりニュースで、行方不明になった子どもを待ち続けるご家族の話題を見かけますけれども、あんな心境だったのかもしれないと想像します。

ぼくの心が狭いのかもしれませんがああいう子どもに対してそういう子なのだと受け入れて優しく接することはできない気がしますし、いなくなってしまった子を待ち続けることもできないだろうと思います。

映画「ルーム」の両親(祖父母)の反応のほうが納得しやすい。

ドリーさんのご両親はどうして恨みごとを言わずにいられるのか。
もしかしたら陰では言っているのかもしれませんが、少なくともドリーさん本人に直接ぶつけることはしないだけの自制心を持ち続けていられるのはすごいと思います。

ああいう子を持つ親御さんに対して、ああいう子への接し方のお手本を見せようとしているのかもしれませんけれども、どちらかというと、ああいう子に手を上げてしまうような親御さんが自分はダメな親だと自分を苦しめる、追い詰める作用があるのではないかと心配してしまいます。

親御さんに対して聖人君子であるべしという押しつけのように見えてしまうのではないかと懸念します。

このところ両親が離婚したり仲違いしたりするような映画ばかり見ているので、逆にこういう柔和なご両親像というのも新鮮に感じる気持ちもあるにはありますが、これはこれで座りが悪いように感じてしまうあたり、我ながらなんとも歪んだ家族観を抱えてしまっているのかもしれません。

妙に八代亜紀さん推しだったのがなんだかおもしろかったです。