下衆の愛 感想

映画「下衆の愛」を観ました。
5月3日、キネカ大森にて。

ゲスの極みみたいな人のお話、かと思っていたのですが、意外にも熱い映画愛のお話でした。
地獄でなぜ悪い』とはまた違ったアプローチの映画映画。

主人公の渋川清彦さんは、自称・映画監督。

過去にはいくつか映画を撮っていたようですが、今は構想中の期間がずいぶん長いこと続いているご様子。
役者の養成所みたいなものを持っていてそのレッスン料をとったり、アダルトな映像を撮って糊口をしのいでいるご様子。
さらには映画に出演させてもらおうとすり寄ってくる駆け出しの女優さんたちに片っ端から手を出しているご様子。
ゲスというかクズというか、それはもうひどいものです。

とはいえ映画を撮る気がまったくないわけではなく、役者や脚本の持ち込みを募集していたようで、そこに脚本家志望の男性と役者志望の女性とか応募してきたところから物語が動き始めます。

いわゆる「ネトラレ」という言葉にはいろんな意味合いが含まれていて、
狭義のネトラレでは交際相手ないしは配偶者といった関係が確立している相手を奪われるものであって、交際以前の段階で別勢力にかっさわれるものはネトラレには含まないという学派もあるようですが、
広義の意味であれば、一方的な好意を寄せている相手が他人にかっさわれるものもネトラレに含めていいのではないかと思うわけです。
とくにその営みを目の前で見せつけられるという心境は、やはりネトラレものの醍醐味でしょう。

ちょうど養成所のレッスンでのお題で、ドアに隔てられた向こう側で恋人が浮気している場面のエチュードがありましたけれども、立場が反転してそれを具現化したような状況であることもまた皮肉です。

あくまでもインディーズで自分の信念で映画を撮りたい渋川清彦さんと、より多くの人たちに自分の映画を見てもらいたいからとメジャー路線に切り替えて大物監督に成り上がった古舘寛治さんとが対峙する場面であり、その立場や地位や影響力の違いを見せつけられる場面でもあります。

理想だけでは飯は食えない。

渋川清彦さんが見出した女優さんは大物監督に取り入ったことでその監督作品に大抜擢されて役者街道を駆け上がっていきます。
彼女の変貌ぶりもある種のステレオタイプ的な感じではありますが、周囲から求められている女優像を体現しようとばかりに無理をしてああいう風に振る舞っていたようにも見えます。
*1

彼女が彼に「女優になる」と宣言して別れを告げたのは、女優という在り方を演じ続ける決意をしたということなのかもしれません。

映画にかける情熱はたしかにある一方で、なんとなく諦めのようなものを抱いてしまっている面もあるようで。
それでもやはり機が熟せば動き出すことができるし、動き出せば何かを為せるかもしれない、という希望が見えるようでもあります。

が、一方で、因果応報、悪いことをしていると最悪の場面でその報いが跳ね返ってくるようで。

クズは所詮クズでしかなく、ゲスは畢竟ゲスでしかないのかもしれません。

*1:太秦ライムライト』も思い出しました。