アイの物語

山本弘「アイの物語」(角川文庫)を読みました。


人類が衰退し、マシンが君臨する未来を背景に、女性型アンドロイドのアイビスさんが、「語り部」である「僕」に、ロボットや人工知能を題材にした架空の物語を読み聞かせる、という形式のお話です。

第1話 宇宙をぼくの手の上に
第2話 ときめきの仮想空間(ヴァーチャル・スペース)
第3話 ミラーガール
第4話 ブラックホール・ダイバー
第5話 正義が正義である世界
第6話 詩音が来た日
という6つの短編・中編の合間に、「僕」とアイビスさんのお話がインターミッションとして進行していき、最後に、
第7話 アイの物語
として、ひとつの大きなお話として実を結ぶ展開は、圧巻です。



以下、個別に。

第1話 宇宙をぼくの手の上に

深宇宙探査船〈セレストリアル〉と、生体宇宙船〈ドゥームズディ・シップ(DS)〉との戦闘と、
新潟で同級生を殺してしまった少年のお話とが、
29才OLさんの視点から、平行して語られていきます。

終盤の緊迫感と、衝撃の事実、両方をいっぺんに解決する鮮やかな打開策、どれもお見事です。


第2話 ときめきの仮想空間

BOOMTOWNのような、身体ごと仮想空間へ入り込むことができる世界のお話、でしょうか。

この仮想空間〈MUGENネット〉にある〈ドリームパーク〉は、冒険を体験できるアトラクションで、
こども向けのCグレードと、年齢制限のあるYグレードがあるようです。

で、この、こどもだましのCグレードに対して、Yグレードはリアリティ(迫真性?)が格段に増しているということで、
後の第7話でも印象的な使われ方をしています。


第3話 ミラーガール

鏡(のようなディスプレイ)の中にいる女の子とお話できるおもちゃのお話、でしょうか。

某ぷりきゅあのグッズとかでもありそうな感じの、育成型ゲームとかの進化形みたいな感じ、かしら。

対話型のAIをおもちゃとして成長させるというのはおもしろいかもですね。

結局のところ、人工知能のようなものが仮にできたとしても、学習に膨大な時間が掛かるのが問題になるでしょうから。

そういえば、昔、人工無能なんてのが流行したことがありましたけど、あれはもしかしたらこれの原形かもしれないですね。


第4話 ブラックホール・ダイバー

〈この世の果て〉と呼ばれるブラックホールを観測するステーションと、そのブラックホールへダイブしようとする人との交流のお話、でしょうか。

まぁ、ダイバーという題名のわりに、観測ステーション〈ヒマワリ(イリアンソス)〉さんの側が主題っぽいわけですが。

えーと、このお話でちょっぴり残念に思ったらのは、イリアンソスさんが、あくまでヒトの感覚を元にして思考しているように読めてしまうことです。

本書の別の部分でも触れられていますが、ヒト型にはヒト型の体性感覚があり、ヒトでない形のものにはその形なりの体性感覚があるはずで、感じ方も考え方も、それに応じて千差万別なはずです。

イリアンソスさんは、観測ステーションであり、自分でも書いているようにたくさんの目と耳を持っていて、ヒトには見たり感じたりすることのできない彩り豊かな世界にいるはずなのですから、そのあたりを読みたかったかな〜、と思ってしまいます。

これは本書を通してでもありますが、マシン(ロボット)の思考は人間には理解できない、といって、たしかに工夫もされてはいるものの、結局は、ヒトの真似事に終止してしまっているのが、なんだかな〜、と思うのでした。


第5話 正義が正義である世界

長年のメル友が実は異世界の住人だったらしい、というお話です。

この世界には、妙な欠落が多くて、トイレには便器という用途のわからない不思議な形のイスのようなものがあるし、酉武池袋線石神井公園より西には決して行けないし、正義のヒーローは怪獣と戦わなくちゃならないし。

でも、メル友の世界では、正義のヒーローはいなくて、死んでもリセットされないらしいのです。

なんということでしょう。


第6話 詩音が来た日

介護用アンドロイドの詩音さんのお話です。

個人的には、ヒト型介護用ロボットの実用性については疑問を感じている部分はあるのですが、
フィクションとしては、いろいろと問題提起をしてくれる良い題材ではありますね。

介護の現場の大変さなどはよく伝わってきます。

ただ、やっぱり、人工知能万能みたいな考え方が鼻に付いてしまうかな〜、と。

論理的って、必ずしも、何もかもを全て円く解決できる思考ではないんじゃないかな〜、と、どうしても懐疑的になってしまいます。

ゲドシールドといわれたらそうなのかもしれませんが。
なんだかすっきりしないものが残ります。


第7話 アイの物語

AIの発展についての、「真実の」歴史のお話です。

このお話では、AIが普及して、AIにのめり込む人が普通に(抵抗のある人はいるものの)容認されているみたいですが、
某「イヴの時間」みたいな、ドリ系とか呼ばれて蔑まされるほうがなんだか迫真的だな〜とか思ったり、
AIの人権保護やら、実体化に際しての論争やらは、なんだか、現在進行形の某児ポ禁法あたりの議論を連想してしまって、切なくなってしまったり。

AIの発達が格闘ゲームの延長というのはいかにもフィクション的だな〜と思いつつも、現実にサッカーでなんとかしようと努力していらっしゃる方々もいるんだよな〜と思いを馳せてみたり。


そうそう、AI同士のコミュニケーションにおいて、ヒトには理解できないような独自の言語文化が発達していくのはおもしろいですね。

ヒトの言語では表現できないような感覚を、AIが独自に創り出していくなんて、ものすごく優秀ですな。
詩を書けないだなんてとんでもない、同じくらい高度な知能が必要なんじゃないかしら。

ただ、この作品が日本人作家による日本語の小説である以上仕方のないことかもしれませんが、日本語でしか表現できないというのは、どうにもならない、作品というよりは小説というメディアの限界なんでしょうか。

AIはAI同士で理解できればいいわけで、敢えてヒトの言語を使う必要はないんじゃないかと思うのですが…
海燕さんあたりだかが言っていた、翻訳コンニャクな問題なのかしら。

それとも、日本語環境で育ったAIは、思考も日本語をベースでフィックス?


あー、もうひとつ、言葉の問題で、
AIがネット上の情報で学習が可能なのか?、文字情報、視覚言語で学習した内容と、音声言語との対応は取れるのか?
…文字→音声変換は、某初音ミクさん的な技術の応用でなんとかなるのかしら?
イントネーションとかは難しそうですが…

うーん、なんだか、なんで自分がこんなことを考えているのかわからなくなってきました…



まぁ、ロボットもののSF小説なんてのは、ロボットを実現させるための思考実験と問題提起だろう、ってことで。



あ、AIが優秀で論理的な思考ができるからといって、みんながみんな同じような結論に到達するものなのかしら?

あんなに個性的なAIが生じるのであれば、論理的帰結にも多様性があってもよさそうなものですが。


あと、ハービィのジレンマを打開するために、少しでも犠牲を出してしまうことを選んだということは、
何らかの対立が生じた場合に、少数の側を切り捨てることも厭わない、みたいな考え方になりそうで、ちょっぴり怖いことになりそうな気もしてしまったり。