神さまの言うとおり

映画「神さまの言うとおり」を観ました。

R15+。
原作未読。

だるまさんがころんだ、とか、かごめかごめ、とか、かんけり、とかで遊ぶお話。

グロ注意。

何の思い入れもなくあっさりばたばたと学生さんたちが亡くなっていきます。

ひどいなあ、むごいなあ、とは思うものの、そのあまりもの軽さにうっかり笑ってしまう勢い。

悪趣味ここに極まれり。

感傷の間もなく、人となりを知る間もなく、あっけなく。

いやはや、ひどい。

実はぼくは、かの悪名高いバトルロワイアルを経験していなくて、そのフォロワー(未来日記とか)を二、三知っている程度なもので、こういった強制巻き込まれゲームに免疫が無いのが幸いだったのかもしれません。

興味深い意味でなく、お腹を抱えて笑い転げる意味で、とてもおもしろかったです。

同じようなゲームの繰り返しでやや単調な感もありますが、心理戦要素など味付けなどを工夫されていたようにも思います。

あと、CGってすごいなあ、と。

二次元の手描きセルアニメーションと無理くり融合させようという試みばかり見慣れている身には、逆に実写とCGとの組み合わせはこんなにも親和性が高いのかと驚かされます。



もったいなく感じたのは、広げすぎた風呂敷を畳まずに投げっぱなしにされてしまったことでしょうか。

せっかく、巻き込まれていない外部の人たちの様子とか、ひきこもっていたっぽいがをられお兄さんとか、なんだかよくわからない要素が散りばめられているのに、それらが何の回収もされずに、え?、というぶつ切りエンド。

この後の世界をこそ知りたい、という飢餓感のようなものを煽られて終わってしまうので、消化不良が著しいです。

どうしてあんな大混乱に陥ってしまったのやら。不思議です。

納得できるできないの次元でなく、説明がまったく無いという点では、ある意味で観客も主人公とはまた別のゲームに巻き込まれてしまったようなものなのかもしれません。

世の中、ルールがあったとしても、必ずしも明文化されているとは限らない。

とはいえ、書かれていたら、それをまず信じるところから始めねばならない。
疑うのは次の段階でしょう。

家庭用のテレビゲームなんかで遊んでいた頃は、説明書なんか読まなくても触っていればだいたいわかるような気がしていましたが、
ソーシャル的なぽちぽちゲームに手を出すようになってからは、説明書きをちゃんと読むことが大切だと感じる場面がしばしばあります。

必読、と書かれていたら、読まねばなりません。

文字が読めても文章を理解できねば意味がありません。

読めないことはおそろしい。

そんなわけで、ゲームのルールを理解する能力、察知する能力、推測する能力などなどは、いったいどうやって身につけたらいいのでしょうかしら。

本作では、主人公級の数人を除くと、ただひたすら泣き喚いて騒ぎ立てるだけの人たちが大勢いたわけですが、ああならないためには、日頃からの準備、鍛錬が必要なのかもしれません。

あらゆる状況を常に想定して、できる限り不測の事態を軽減し、臨機応変に対処することができるか。

そういえば、ネットで仕入れた知識によると、学校やショッピングモールをテロリストやゾンビが襲撃してくるような場面を常に想定して方策を練っている手練れもおられると目にします。

常在戦場。

普段なにげなく過ごしている日常が突如として苦境に姿を変えるという厳然たる事実は今なお傷跡を残しているにも関わらず、
そういえば当時ぼくは関東から離れていたので、わりと余所ごとに見えていたものだなあと振り返ります。

あの日、羽田空港で身動きとれなくなって非常用の毛布を借りて一晩明かしたのも、なんだか遠い昔のことみたいです。

リアルは地獄、なんて歌詞もありますが、非日常を体験すると日常のありがたみを実感できるわけで、平和ってありがたい。

ドラえもんさんでも、ありがたみを体験できる道具がありましたっけ。



そんなこんなで、神さまの意地悪さといえば、麻耶雄嵩さんの「神様ゲーム」「さよなら神様」もいいですよね。
という唐突な結び。