冴えない彼女の育てかた Fine 感想

冴えない彼女の育てかた Fine」を観ました。
2019年11月9日、川崎チネチッタにて。
原作未読。

 

焼き肉たべたい
バルスってMZMさんのとこでしたっけ。冒頭のライブのとこかしら(他に3D使ってそうなとこわかんなかった)

加藤さんとえりりさんがお風呂入ってる場面で燃焼ランプが二つ点灯してたのが気になりましたけど別のとこでお湯出してたのかしら。とか野暮なことを考えてしまったけど、二人の心が燃えているメタファーだったのかも

 

 

こういう「フラグが立つ」とか「ルートに入る」とかの概念をすんなり使うことができるのはゲーム作りが題材だからということもあるのかしら。

ゲーム以外の媒体だと、どのルートを選択するかはあくまでも作者に委ねられてしまうけど、ゲームにおいては、プレイヤーにその選択権が与えられていて、この作品における「プレイヤー」は主人公一人だけではなく登場人物それぞれが各々のゲームをプレイしていて。選択肢と、おそらくはどちらを選んだらどういうルートに進むのかがなんとなく予想できていて。

「選ばなかったルート」のせつなさというか、「でもそうはならなかった、ならなかったんだよ」的なやつ。

 

冴えカノ、原作は未読で、テレビでやってたアニメははじめのほうは見てたけど途中で脱落しまして。
なんか主人公を好きになれない、というのがその理由の大きい部分で、それは今回の映画でもやっぱり同じでした。
周りの人たちが彼の力を認めているのに妙に卑屈な態度が気にくわないのだと思います。
端的に言えば、うらやましいのだと思います。
ぼくには彼のような情熱も行動力もありませんし、彼はいい意味で空気を読まずに我を通せる頑固さとかこだわりみたいなものをもっているし、「キモい」ということになっているけど、他人を惹き付けるだけの魅力のあるキモさだし。クリエイティブな適性が高いのだろうと思います。
人によっては彼のことを魅力的に見えるであろうことはわかるのですが、それだけに妬ましさも強くあります。

その上で、先輩や幼なじみを「高嶺の花」に据えてしまって手が届かないとあきらめて、手の届く加藤さんを選んだわけで(あるいは作者によって「選ばされた」)

物語の構造が多層的でややこしくてぼくの頭では整理できていないのですが、この物語で描かれているようなギャルゲー的世界観に立つならば、再帰的にというのか自己言及的にというのか、先輩や幼なじみのルートを選ぶこともできたはずで。

となると、物語の主人公である彼自身の意志とは別に、彼をそのような考え方をするように仕向けた作者の存在を意識せざるを得なくなるというか。

このあたり、物語内部の登場人物たちの言動と物語外部にある作者やらなんやらの意志や思惑とを切り分けて考えるべきなのでしょうけれども、そういう切り分けがぼくは下手なのかもしれません。

 

いや、この物語自体が入れ子構造的に物語内部のキャラクターと物語外部であるはずの作者側の事情とをごちゃ混ぜにしているのだから受け手がごちゃ混ぜに見てしまうのもしゃーなしか。