ジョーカー 感想

映画「ジョーカー」を観ました。

2019年10月22日、シネマサンシャイン沼津にて。

 

バットマン関係の作品をあまり見たことなくて、記憶にある範囲だとバットマンvスーパーマン、レゴバットマンニンジャバットマン、程度しか知らないもので、ジョーカーさんについてもレゴバットマンでのやたらとバットマンさんにちょっかいかけてくるバットマン大好きさんくらいの認識しかない上に、この「ジョーカー」の予告編が映画館で流れ始めた頃は「バットマンシリーズの敵としてのジョーカー」のことだと知らずに予告編を見ていたような、その程度の前知識の立場です。

 

なので、この作品のジョーカーさんがこのあとバットマンさんの前に立ち塞がる巨悪へと変貌していくらしいとか、バットマンシリーズのジョーカーさんとは別の世界線らしいだとか、情報が錯綜しているようですが、あんまりぴんときていません。

 

なんやかんや追い詰められた主人公が凶行に手を染めてしまった哀しいお話、としてだけ見ていた気がします。

 

探偵さんや刑事さんが殺人事件を解決していくような推理もので、犯人(容疑者)の独白の再現映像を見ているような感覚というか。

犯人(容疑者)が犯行に至らざるをえないほど追い詰められていたという境遇には同情の余地があるかもしれないけれども、だからといって、犯行に及ぶという一線を越えてしまったことについては断固として許してはならない、みたいな。

 

推理ものにおいて、推理する側である探偵さんや刑事さんが犯人の思考をトレースしようとするあまり犯人と同調してしまうというものもしばしばある気がします。

そういう作品では、読者ないし視聴者もまた犯人の思考に同調しやすいように描写されている気がします。

 

ふと思い出したのは「検察側の罪人」(2018年公開の映画のほう)でした。あれは悪を司法で裁くことができないという理不尽さを私的な力でどうこうしてしまったようなものだったと記憶しています。司法ではどうにもできないことへの苛立ちとか憤りみたいな部分は、共感というのか、理不尽さに対するやるせなさを感じる部分もありましたが、とある登場人物が道を踏み外していくにつれて、そっちへ行ってはいかんぜよ、みたいな気持ちにもなっていた気がします。

 

 

 

考えがまとまらなくなってきましたが、書きたかったのは、ジョーカーさんが「バットマンの敵としてジョーカー」と関連している(かもしれない)という付随的な情報がなかったとしたらどうだったんだろう、なんてことを考えてみたいというようなことだったはずでした。