ジブリの教科書9「耳をすませば」 感想

ジブリの教科書9 耳をすませば」、文春ジブリ文庫

映画「耳をすませば」の解説、制作現場紹介、その他もろもろ。

いつもながら、アニメーションの制作過程をわかったような気分に浸れたかのように錯覚できます。

背景美術のお話とか、興味深いです。

写実的なリアルさというよりも、陰影の加減だとか、コンピューターの導入による変化だとか。

撮影さんについても、最近、興味を持ちつつあります。

原画さんや動画さんといったいわゆる「アニメーター」さんの技量については、わりかし話題にあがりやすいように思いますが、
最近は撮影さんのお話もチラホラと聞くことができる機会が増えてきたようで、嬉しいです。

「日本アニメ(ーター)見本市」の解説番組である「同トレス」で、撮影さんの仕事の段階で映像が変化していく様子を見ることができたのは、感動的でした。

影技術で映像の印象がこんなにも変わるのか、と知りました。

普段はなかなか意識しない部分ではありますが、何か琴線に触れる映像を見たとき、それが撮影さんの技術によってもたらされているのかもしれない、と想像することが増えたように思います。

そんなわけで、本書の内容についても、概ね、満たされた気持ちです。

が、巻末の、大塚英志さんによる「解題」に対しては、なぜだか妙に反感を抱いてしまいました。

「自分には響かなかった」ということを、あれこれと牽強付会的にこじつけているだけに見えてしまい、もやもやします。

この「もやもや」について自己分析してみます。

「解題」は二段階になっていて、

  • 永遠の青春映画
  • 少女まんが

という2つの面から、「耳をすませば」を見ようとしています。

1つ目の「青春映画」な側面に関しては、時代背景や世代、受け手自身の年齢や自意識によるらしいので、そういう側面から「耳をすませば」は自分に合わなかった、ということはあるでしょう。

問題は2つ目の「少女まんが」という側面というか文脈のお話。

大塚英志さん自身が「少女まんが」についてこれだけ知っているのだから当然宮崎駿さんもこのくらい考えているべき、みたいな感じが鼻につくのではないかと、ぼく個人としては思います。

自分語りになりますが、ぼく自身は、いわゆる「24年組」と呼ばれるような方々の作品をほとんど読んでいません。

つい先だって、「大友克洋さんのすごさがわからない」みたいな話題がネットで広まっていましたが、ぼく自身も、そのグループに属します。

もっといえば、手塚治虫さんのすごさすら、実感としてはわかっていません。
ただなんとなく、ネームバリューだけで恐れ入っている程度の認識。

テヅカ・イズ・デッド」をはじめとした解説書的なものもいくつか読んではいるので、歴史上の立ち位置という視点ならば、どうにか頭では理解できますけれども、
彼らの作品の出現によって世界が激変したみたいな実感は、わかりようがありません。

少女まんがに限らず、まんが表現全体についても、「進む」とはどういうことか、進化の道はひとつしかないのか、というのが疑問です。

24年組の方々が開拓した分野があるとして、後続の作家はそれを追随しなければならないという制約は無いのではなかろうか。

作品に合った表現でいいのではないか、と思うのです。

浅い理解ですが、24年組の方々の功績は、その心理描写にあるように受け止めています。

その後続として、心理面をより深く掘り下げていく方向性の系統があってもいいでしょう。

けれども、必ずしも、内面化の方向へ進めばいいというわけではないと思うのです。

この「解題」の例として、片親のような家庭描写を挙げられていますけれども、だからといって、両親が健在である作品が劣っていると評価される謂われはないはずです。

むしろ、「狭苦しい団地」で、「両親が共働き」(大学で勉強しているのは厳密には共働きとは違うかもしれませんけれども)で、「娘を抑圧するわけではなく理解しようとしてくれる両親」というのは、むしろ、より現代的なのではないかと思っています。

親が子に対峙して乗り越えるべき壁として立ちはだかるような家庭はむしろ古風で、
親が子に寄り添い、理解を示そうとし、甘やかし、結果的に子の自立心が育ちにくいという状態こそ、問題として意識されるべきなのではないか、ということの片鱗が、映画「耳をすませば」には描かれているように思います。


ここまで書いて長いこと放置していたので、結論としてどういうことを書こうとしていたのか忘れてしまいました。

見切り発車ですが、ご寛恕ください。