イミテーション・ゲーム 感想

映画「イミテーション・ゲーム エニグマと天才数学者の秘密」を観ました。

字幕版。

チューリング博士のお話。

チューリング・マシンとか、チューリング・テストとかの単語に心を揺さぶられます。
聞いただけでワクワクしてしまいます。

ぼくが知ったのは大学に入ってからだったはずですが、今どきのラノベ読みの方々なら中学二年生くらいで出会ってこじらせているかもしれません。

今や懐かしのプロジェクトX 的な、仕事上の困難に立ち向かい解決していくお話、という要素ももちろんあるのですが、現実はそんなに綺麗事だけで済むはずもなく、もう一段階奥に深まった、政治的な泥仕合の様相も垣間見えます。

戦前(学生時代)、戦中、戦後、と3つの時代を行ったり来たりしつつ、それぞれの時代に「秘密」という暗号が埋め込まれていて、映画全体として、観賞者に対する大きな問いになっているかのような構造に見えました。

たしか冒頭のナレーションが、観賞者への挑戦状とも受け取れるような感じにも聞こえた気がします。

暗号を解くことは相手を理解しようとすることだし、そもそも言語を使って対話するという行為自体もまた、暗号化と解読というプロトコルなのかもしれません。

女性が「リンゴが3つあって2つ足したらいくつになるでしょうか?」と問うたとき、それはただリンゴの数を訊いているわけではない、みたいなマンガの1コマが広まったりもしていましたけれども、何か発言が為された場合に、その発言が出てきた文脈や意図を推察しなければならないというのは、暗号の解読と同様なのでしょう。

「いつまでも独身でいると世間体が悪いから帰ってこいと親から言われている」と聞いた時に、「だったら独身でなくなればいい」と提案できるだけの機転がきくかどうか。

落ち着いて考えれば誘導とか挑発のような気もしますけれども、面と向かって言われたら、その場で解読できるかというと、難しいように思います。

そういう駆け引きを日常的に訓練しているような方々とは、見えている世界が違うのかもしれません。

ですので、そういった駆け引きの入出力や応答の関係性を統計的に整理することができれば、ある種の工学として体系化することもできるかもしれない、という希望的観測のような発想は、その謎かけのような暗号の解読を機械的に処理したいという願望の発露として見ることもできるかもしれません。

翻訳コンニャクみたいに、暗号化された発言を解読してくれるアプリがあるのであれば、フィーチャーホンからすまほへの乗り換えを検討してみようという気になるかもしれません。

単純な男女の性差という話ではなくて、性別に関係なく、人がそれぞれ他人であって考え方が異なるのだから、言語だけで考えや気持ちを伝えるには限界がある、というお話だと思います。



言語の相互理解不可能性みたいなところから、チューリング・テストの問題も生じるように思えます。

対話(音声言語に限らず、ディスプレイを介した文字言語でも可)できる機械が存在する場合に、その対話から相手が人間か機械か判別することが可能かどうか。

相手を機械だと知らずにその対話を「人間」だと判別できるような機械があるのなら、その機械は人間と同様の思考が可能だと見做せるのではないか。

逆に、仮に人間と対話しても相手のことを理解できない場合、その人は果たして「人間」なのだろうか。

人間って、何かね。



一方で、劇中のチューリング博士は、機械は必ずしも人間と同じような思考をする必要はなくて、機械には機械なりの思考があっていい、という考え方も提示します。

これもまた、人間がそれぞれ異なる考え方を持っているだから、みんな違ってみんないい、ということだろうと思います。


    • -

いわゆる「えろげー」と呼ばれるタイプの、成年男性向けPCゲームにおいて、あるいはもう少し広義の年齢制限のない「ぎゃるげー」でも同じかもしれませんけれども、ゲーム内のキャラクターがまるで生きているかのような錯覚に陥ることがあります。

もちろん、よく言われるように、ゲームと現実とを混同してしまうような、受け手側の未成熟さに起因するのかもしれませんけれども、同時に、「人間」だってゲームの中のキャラクターと大して変わりやしないじゃないか、という気持ちもあります。

……、みたいなことを考えてしまうので、やはり「えろげー」はあくまでも成年向けであり、成熟した大人の嗜好品なのでしょう。

未来にキスを、を途中で放り投げたままなのが今更ながら悔やまれるので、フロレアールsense off みたく復刻していただけないものかしら、と期待してみたり。

I'veさんの15周年ライブも円盤になるなら購入いたしたく。



ちょうどタイムリーに、将棋でコンピューターさんとの対局が話題になっていたみたいですけれども、膨大な計算処理をする場合に、可能性がほとんど無いような条件を除外して少しでも試行回数の負荷を減らそうとするのは、重要なことなのだなあと、この映画を観ると思います。

例外の場合の処理とかもたいへんそうですけれども。