源静香は野比のび太と結婚するしかなかったのか

中川右介源静香野比のび太と結婚するしかなかったのか『ドラえもん』の現実(リアル)」、PHP新書

ドラえもん」のお話。

ドラえもん」に対して持っているイメージは、(1)アニメだけしか知らない人と、(2)原作まんがも読んでいる人と、(3)異色短編まで知っている人と、それぞれ異なるだろうと思います。

とくに、大山のぶ代さんのドラえもんの「ホンワカパッパ」なイメージが念頭にある場合、本書で使われる「爆笑ギャグマンガ」という表記に違和感があるかもしれません。

ぼくも「変ドラ」に出会うまでは、原作・アニメ共に触れて育ったものの、ここまで過激なものだとは思っていませんでした。
なお、ヰタセクスアリスはしずちゃんさんだった模様。

ともあれ、少なからず「爆笑ギャグ」要素も、あることはあるのです。
※「変ドラ」はドラえもんに対するイメージが壊れる可能性があるので要注意。

また、本書では異色短編についての記述が慎重に避けられていますけれども、「ドラえもん」の背景には異色短編の存在も欠かせないと思われます。
※※異色短編についても、藤子・F・不二雄先生に対するイメージがガラッと変わる危険性があるので要注意。
「女には売るものがある」なんていう直球な題名の作品もあったりします。

とはいえ、本書の記載を真に受けるならば、しずちゃんさんの扱いに大して疑問を抱けないぼくにはフェミニズムの素養が無いようなので、フェミニズムが何なのかすらわかっていないのかもしれません。



そんなわけで、認識は人それぞれのはずなので、漠然とした総体としての「ドラえもん」像 のようなものが日本全体で共有されているだろうというのは幻想に過ぎない気もしますけれども、同時に、お茶の間テレビの申し子的な意味では共通体験としての「ドラえもん」像というのもあり得るのかしら、とも思えたり。

各話数単位でのブレはあるものの、「のび太くん」「しずちゃんさん」「スネ夫さん」「ジャイアンさん」「出来杉さん」といった名前の持つ役割の記号性は確かにあるようです。



スクールカーストについては、本書で挙げられている「ぼっちーズ」も「桐島、部活やめるってよ」も未読未見なので、個人的な見聞き範囲内でスクールカーストを扱っている作品として、田中ロミオ「AURA〜魔竜院光牙最後の闘い」と渡航やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。」(ともに小学館ガガガ文庫)を挙げるに留めます。

小学生ではなくて高校生のお話ですが、カースト制度の外側にはみ出すことで、カースト上位に匹敵する器量さんと縁を持つことができたかもしれない可能性を期待できるかもしれない気分に浸れます。
(実際に縁があるのは雪ノ下さんでも由比ヶ浜さんでも戸塚さんでも平塚先生でもなくて、材木座さんだけかもしれませんが、それでも。)



ドラえもんさんが学校には入れない、という指摘は、なるほどでした。

3DCG版で、どこでもドアで学校へ行ってしまったのに違和感があったのは禁じ手だったからなのか、と。

遅刻しない方法ではなくて、「いかにして今回も遅刻したかを描いている」という指摘はすっきりと腑に落ちました。

F先生が落語の愛好家で「ドラえもん」が落語的だというのはしばしば見かける話ですが、その「落語的」という意味がようやく納得できた気分です。

単に起承転結とか序破急みたいな展開できれいなオチがある、という構造面のことだけでなく、結果だけではなくてその過程こそが面白さなのだ、ということだろうと理解しました。



つらつらと書いてきましたが、本書の白眉は、「大全集」に基づいた、世代論ならぬ「年代論」にあると思います。

ドラえもん」は学年誌に連載されていて、一年生から六年生まで6通りの「ドラえもん」を描き分けていたことまでは辛うじて知っていましたが、それが、一年生の子が二年生になった時にそのまま物語の連続性が維持されているような、前の学年でお別れしていたら次の学年で自然に再会できるような、繊細な配慮で描き分けられていたとは。

ほんと恐れ入ります。

「すごい」ことと「面白い」ことは必ずしも両立しないのかもしれませんが、あくまでも「こどものためのマンガ」にこだわったF先生ならではなのだろうと思います。

が、同時にそれは、学年ごと(生まれた年ごと)に異なる「ドラえもん」を読んでいたことになるわけで、学年が違えば「この話知ってる〜」とか、「え?、そんな話あった?」とか、「バケルくんって誰だよwww」とか、そもそも実際に体験している物語が異なってしまうことにもつながっているのかもしれません。

ドラえもん」という記号は共通していながら、物語の文脈に齟齬をきたすような、複雑怪奇な事態を引き起こしているようにも思えます。

てんとう虫コミック派とF・Fランド派とでも違うでしょうし、「作品そのもの」と「読者・視聴者の体験、受容のされ方」との相関関係はかなりややこしいことになりそうです。

本書が浮き彫りにする、1959年度生まれが読んだのはこんな始まりでこんな最終回、1960年度生まれが読んだのはまた別の始まりと最終回、と年代別に見るその図は、もはや時刻表トリックを越えた年表トリックの域。

図表を読み取る高度な能力が要求されます。

正直、難しいです。

ぼくはちょっぴり、あーそう、ふーん、みたくなってしまいました。



そんなわけで、「ドラえもん」は、全国的な知名度に反して、その人の触れている範囲によって見え方・知識量が異なる、デリケートな話題だということになろうかと思います。



あと、本書の表題に関して、しずちゃんさん側の選択肢視点っぽい書かれ方ですが、
個人的には「のび太くんですらしずちゃんさんと結婚できる」という楽観視を読者として持たされてしまったのが、この人生最大の敗因ではないかと思ってしまうことがあります。

のび太くんですら」ではなくて、「のび太さんだからこそ」結婚できたのだと、30過ぎたくらいにようやく気付きました。

結婚前夜しずちゃんさんのパパさんの台詞が、今になって身にしみます。

ぼくは旧い考え方なので、専業主婦という在り方は別段悲観することではないと思っています。

働きたい女性が働くことを否定するつもりはないものの、夫の収入だけで生活できるなら、わざわざ子を他人に預けてまで共働きする必要は無いのではないかと思うのです。

個人的に、働かなくてすむなら働きたくないという気持ちが強いもので、あえてわざわざ働きたいという動機がわからない、ということもあるかもしれませんが。

鍵っ子と、親(ないしは祖父母なり誰かしら家族)が帰宅を迎えてくれる家庭とでは、情緒的な成育が違うんじゃないかな〜、とは裏付けも何もない思い込みですが。

むしろ養えるだけの甲斐性を持ちたい。

在宅勤務とか主夫とかという在り方もあるとは思いますけれども。

この幼心に植え付けられた楽観的な結婚観と、家族を養えるとはとても思えない現状とを覆すのは、ちょっぴりたいへんな気がします。

ドラえもん 1 (藤子・F・不二雄大全集)

ドラえもん 1 (藤子・F・不二雄大全集)